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平家物語『木曾の最期』現代語訳

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 解説・品詞分解はこちら平家物語『木曾の最期』(1)解説・品詞分解(巴との別れ)

目次

巴との別れ

木曾(きそ)左馬頭(さまのかみ)、その日の装束(しょうぞく)には、赤地の(にしき)直垂(ひたたれ)に、(から)(あや)(おどし)(よろい)着て、鍬形(くわがた)打つたる(かぶと)()()め、いかものづくりの(おお)()()はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、(かしら)(だか)に負ひなし、滋籘(しげどう)の弓持つて、

 

木曾左馬頭は、その日の服装には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧を着て、鍬形を打ち付けた甲の緒を締めて、厳めしく作りの大太刀を腰につけ、石打ちの矢がその日の戦いで射て少し残っているのを、頭上に高く出して背負うようにして、藤をしげく巻き付けた弓を持って、

 

 

聞こゆる木曾の(おに)葦毛(あしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、(きん)(ぷく)(りん)(くら)置いてぞ乗つたりける。

 

有名な木曾の鬼葦毛という馬で、きわめて太くたくましい馬に金覆輪の鞍を置いて乗ったのだった。

 

 

(あぶみ)ふんばり立ち上がり、大音声(だいおんじょう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾の冠者(かんじゃ)、今は見るらん、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)(あさ)()将軍源義仲ぞや。

 

鐙に足をかけて踏ん張って(馬の上に)立ち上がり、大声を上げて名のったことには、「昔聞いただろうが、(この私)木曾の冠者を、(お前は)いま見ているだろう。(私が)左馬頭兼
伊予守、朝日将軍源義仲であるぞ。

 

 

甲斐(かい)一条次郎(いちじょうのじろう)とこそ 聞け。互ひによいかたきぞ。義仲討つて兵衛佐(ひょうえのすけ)に見せよや。」とて、をめいて()く。

 

(お前は)甲斐の一条次郎だと聞く。互いに良い(相手となる)敵だ。(この私)義仲を討って兵衛佐(源頼朝のこと)に見せよ。」と言って、大声を上げて馬で駆ける。

 

 

一条次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党(わかとう)、討てや」とて、

 

一条次郎は、「ただ今名のったのは大将軍(義仲のこと)だぞ。(敵を)残すな者ども、取り逃すな若者ども、討て。」と言って、

 

 

大勢の中に取りこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。

 

大勢の中に(義仲の軍を)取り囲んで、我こそ討ち取ろうと進んだ。

 

 

木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手(くもで)十文字(じゅうもんじ)に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。

 

木曾の三百余騎は、六千余騎の敵軍の中を、縦・横・八方・十字に駆け入って、後方へつっと出たところ、五十騎ほどになっていた。

 

 

そこを(やぶ)つて行くほどに、土肥(どい)()(ろう)(さね)(ひら)二千余騎で支へたり。

 

そこを突破して行くうちに、土肥次郎実平が二千騎ほどで(義仲らの行く手を)はばんでいた。

 

 

それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。

 

それをも破って行くうちに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、また百四、五十騎、さらに百騎ほどの中を何度も駆け破って行くうちに、主従(主と家来)合わせて五騎になってしまった。

 

 

五騎がうちまで(ともえ)は討たれざりけり。

 

五騎までになっても巴は討たれなかった。

 

 

木曾殿、「おのれは()()う、女なれば、いづちへも行け。われは()()せんと思ふなり。

 

木曽殿は、「お前はさっさと、女であるから、どこへでも逃げて行け。私は討ち死にをしようと思うのだ。

 

 

もし人手にかからば自害をせんずれば、

 

もし人手にかかるならば自害をするつもりなので、

 

 

『木曾殿の、最後のいくさに女を具せられたりけり。』なんど言はれんことも、しかるべからず。」とのたまひけれども、

 

『木曾殿の最後の戦いに女を連れていらっしゃった。』などと言われるとしたらそのようなことも、残念だ。」とおっしゃったけれども、

※このあたりの義仲の発言は巴を死なせないための口実であって、巴にここで死なず幸せになってほしいというのが義仲の本心だと考えられる。

 

 

なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉りて、

 

(巴は)それでも逃げて行かなかったが、あまりに言われ申して、

 

 

「あつぱれ、よからう(かたき)がな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、控へたるところに、

 

「ああ、良い敵がいればなあ。最後の戦いをして見せ申し上げよう。」といって、待っているところに、

 

 

武蔵(むさし)国に聞こえたる大力(だいぢから)(おん)()(はち)(ろう)(もろ)(しげ)、三十騎ばかりで出で来たり。

 

武蔵国で有名な大力の御田八郎師重が、三十騎ほどで出て来た。

 

 

巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる(くら)(まえ)()に押しつけて、ちつとも動かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。

 

巴は、そのなかに駆け入り、御田八郎に馬を押し並べ、むんずと(力を込めて)引き落とし、自分の乗っている馬の鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きさせず、首をねじ切って捨ててしまった。

 

 

その後物の具脱ぎ捨て、東国の(かた)へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたろう)()()す。手塚別当(てづかのべっとう)落ちにけり。

 

その後、武具を脱ぎ捨てて、東国の方へ逃げ落ちて行った。(ちなみにこの時、)手塚太郎は討ち死にした。手塚別当は逃げ落ちた。

 

 

今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、

 今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ(よろい)が、今日は重うなつたるぞや。」

 

今井四郎と木曾殿は、たった主従二騎になって、(木曾殿が)おっしゃったことには、「ふだんは何とも思わない鎧が、今日は重くなったぞ。」

 

 

今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせたまはず。御馬(おんうま)も弱り(そうろ)はず。

 

今井四郎が申し上げたことには、「(あなたの)おからだもまだお疲れになっていません。お馬も弱っておりません。

 

 

何によつてか一領の(おん)()()(なが)を重うはおぼしめし候ふべき。

 

どうして一着の鎧を重くお思いになるはずがありましょうか。(いえ、ありません。)

 

 

それは()(かた)御勢(おんせい)が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。

 

それは御味方に軍勢がございませんので、気おくれしてそのように思いなさるのです。

 

 

(かね)(ひら)一人候ふとも、()の武者千騎とおぼしめせ。

 

兼平一人だけがお仕え申し上げるとしても、他の武者千騎(に相当する)とお思いください。

 

 

矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢つかまつらん。

 

(まだ、)矢が7、8本ございますので、しばらく防戦いたしましょう。

 

 

あれに見え候ふ、(あわ)()の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、

 

あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で、御自害なさいませ。」と言って、馬に鞭打って行くうちに、

 

 

また(あら)()の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの(かたき)防き候はん。」と申しければ、

 

また新手の敵、武者五十騎ほどが出て来た。「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵軍を防ぎましょう。」と申したところ、

 

 

木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、

 

木曾殿がおっしゃったことには、「義仲は都でどのようにでもなる(=死ぬ)つもりだったが、

 

 

これまで逃れ来るは、(なんぢ)一所(いっしょ)死なと思ふためなり

 

ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思うためである。

 

 

所々で討たれんよりも、(ひと)(ところ)でこそ討死をもせめ。」とて、

 

別々な場所で打たれて死ぬよりも、一つの場所で討ち死にをしよう。」と言って、

 

 

 

馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、

 

馬の鼻先を並べて駆け出そうとなさると、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口元にとりついて申し上げたことには、

 

 

「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(こうみょう)候ふとも、

 

「武士は、長年にわたってふだんからどのような勇名がございましょうとも、

 

 

最後の時不覚しつれば、長き(きず)にて候ふなり

 

(命の)最後の時に失敗したならば、(死後)長きにわたる不名誉でございます。

 

 

御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢は候はず。

 

お体はお疲れになっておられます。(我々に味方として)続く軍勢はございません。

 

 

敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等(ろうどう)に組み落とされさせたまひて、

 

敵に押しへだてられ、とるに足らない人の家来に(馬から)組み落とされなさって、

 

 

討たれさせたまひなば、

 

討ち取られなさったならば、

 

 

『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、

 

『あれほど日本中で評判になっていらっしゃった木曾殿を、

 

 

それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。

 

だれそれの家来が討ち申し上げた。』などと申すようなことが残念でございます。

 

 

ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、

 

ただただあの松原へお入りください。」と申し上げたところ、

 

 

木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。

 

木曾殿は、「そういうのならば(そうしよう)。」と言って、粟津の松原へ馬を走らせなさる。

 

  

今井四郎と木曽義仲の最期

今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、

 

今井四郎はたったの一騎で、五十騎ほどの敵の中へ駆け入り、(重たい)鎧を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名のったことには、

 

 

「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。

 

「ふだんはうわさでも聞いていたであろう、今は(自分の)目で見なされ、

 

 

木曾殿の(おん)乳母(めのと)()、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。

 

木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、年は三十三になり申す。

 

 

さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ」とて、

 

そういう者がいるということは、鎌倉殿(=頼朝)までもご存じであろうぞ。(この)兼平を討ち取って(首を鎌倉殿の)お目にかけよ。」と言って、

 

 

射残したる()(すぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。

 

射残した八本の矢を、とにかく矢を弓につがえて、次々に射る。生死は分からないが、たちまちに敵を八騎射落とした。

 

 

その後打ち物抜いて、あれに()せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、(おもて)を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。

 

その後は刀を抜いて、あちらに馬を走らせて戦い、こちらに馬を走らせて戦い、切って回るが、面と向かって相手になる者はいない。敵の首を取ることたくさんした。

 

 

ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、

 

(敵は)ただ、「射殺せよ。」と言って、(兼平を)中に取り囲んで、雨が降るように射たけれど、

 

 

(よろい)よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。

 

鎧がよいので(矢が)鎧の裏まで通らず、(鎧の)すきまを射ないので、(兼平は)傷も負わない。

 

 

木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、正月二十一日、入相(いりあい)ばかりのことなるに、(うす)(ごおり)張つたりけり。

 

木曽殿はたったの一騎で、粟津の松原へ馬を走らせなさるが、一月二十一日の、夕暮れ時のことであるうえに、(田の表面に)薄氷が張っていた。

 

 

(ふか)()ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。

 

底の深い田があるとも知らずに、馬をさっと乗り入れたので、(沈み込んで)馬の頭も見えなくなった。

 

 

あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。

 

いくら馬の腹を蹴ってあおっても、どんなにむちで打っても(馬は)動かない。

 

 

今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎたまへる(うち)(かぶと)を、三浦の(いし)(だの)()(ろう)(ため)(ひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。

 

(木曽殿は)今井の行方が気がかりで、振り向き見上げなさった甲の内側を、三浦の石田次郎為久が、追いついて、弓をよく引いて、ひゅうふっと射た。

 

 

痛手なれば、(まっ)(こう)を馬の頭に当ててうつぶしたまへるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。

 

深い傷なので、甲の正面を馬の頭に当ててうつ伏しなさったところに、石田の家来が二人来合せて、ついに木曽殿の首を取ってしまった。

 

 

太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、

 

(首を)太刀の先に貫いて、高くさし上げ、大声をあげて、

 

 

「この日ごろ日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名のりければ、

 

「このごろ日本国に名声が知れわたっていらっしゃった木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名のったので、

 

 

今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、「今は(たれ)をかばはんとてか、いくさをもすべき。

 

今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、「今となっては誰をかばおうとして、いくさをする必要があろうか。(いや、ない。)

 

 

これを見たまへ、東国の殿ばら、日本一の(こう)の者の自害する手本。」とて、

 

これをご覧なされ、東国のかたがた、日本一の強者が自害する手本だぞ。」と言って、

 

 

太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、(つらぬ)かつてぞ失せにける。

 

太刀の先を口に含み、馬から逆さまに飛び落ち、(自ら首を)貫いて死んでしまった。

 

 

さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。

 

そうして粟津のいくさは終わった。

 

 

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